東京軍事裁判で戦った郷土の偉人
極東国際軍事裁判(東京裁判)で、戦犯扱いされた「大川周明」は東条英機の頭を叩き、
石原莞爾この戦争の戦犯はトルーマンだと証言しています。
これらは良く話題になりますが、郷里ではあまり知られていません。

1951年9月4日、サンフランシスコ講和会議で日本は東京裁判の判決を
受け入れることで独立を回復したものの
末代まで禍根を残すことになっています。
事後法と 皆が批判す この裁き 勝てば官軍 負けは賊軍
この裁き 余儀無く選び 和を結ぶ とは言え悔し 尾を引く無念
跳ね返す 気力失せたか 今の民 莞爾の教え 水泡に帰す
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石原莞爾」(1889年1月18日〜1949年8月15日)は、山形県西田川郡鶴岡(現・鶴岡市)で誕生、父親は警察官であった。開戦直前、東条英機と袂を分かった後は帰郷し、遊佐町吹浦(現在の「道の駅ふらっと」)辺りに居住し、飽海郡遊佐町高瀬村の西山農場を営む。60歳没。墓所は遊佐町菅里(道の駅「ふらっと」の北方約500m)に所在しております。二度結婚しているが子供はおらずおらず、第6代鶴岡市市長で衆議院議員加藤精三(元衆議院議員加藤紘一の父で、衆議院議員加藤鮎子の祖父)は石原莞爾とは又従兄弟の関係です。
大川周明」(明治19年(1886年)12月6日〜1957年12月24日)は、医師の父・周賢と母・多代女の長男として、酒田市西荒瀬藤塚(下市神の南方、旧国道沿い)に生まれています。荘内中学時代、藩学の大儒角田俊次に師事、藩学の講義を受けています。明治44(1911)年東京帝大哲学科卒です。 
 『米英東亜侵略史』は1941年12月8日の日米開戦直後、大川周明が日本政府に依頼されて行ったNHKラジオの原稿です。その放送で大川周明は、米英の暗部を暴き、日本人が立ち上がるべき理由を訴えたのです。 大川周明がそこで明らかにしたのは何だったのか、周明が何を語り、当時の日本人を突き動かしたのかを記録しています。
 当時の大川周明は著名な思想家、時には雄弁な解説者として国から信頼されていた証拠に、NHKラジオで開戦7日目から連続12回にわたって
国民に開戦の正当性を説明しています
 このことで東京裁判では、唯一、民間人としてA級戦犯の容疑で起訴されました。しかし梅毒による精神障害と診断され、訴追免除となっています。晩年はクルアーン全文を翻訳するなどイスラーム研究で優秀な実績を残しています。東京軍事裁判では、東条英機を後ろから殴った奇行ばかり話題にされますが、当時は唯一無の論客としてNHKラジオなどで活躍していたのです。

 晩年は、神奈川県愛甲郡中津村485-1 (現在は古民家山十邸)の自宅で過ごし、1957年12月24日に死去。
大川周明が晩年を過ごした 神奈川県愛甲郡中津村485-1 (現在・古民家山十邸)
 
 石原莞爾は東京裁判で「戦犯はトルーマン」と断じた経緯
太平洋戦争の真実 その15 ―戦争の天才:石原莞爾 ―
曹洞宗西光寺 千葉県館山市正木1930
石原莞爾は頭脳明晰で、順調に階級を駆け上がっていきましたが、自我が強く、やや協調性に欠けてしまう一面もあったようです。最たる例が、東條英機との確執です。仲違いが激しく、やがて石原は左遷されてしまうのですが、もしここで石原が東條に勝っていたら、おそらく今回の戦争は負けなかったかも知れないとさえ言われています。
■満州事変の後、日中戦争を進めようとする東條に対して石原は猛反対します。
 それは、石原が唱える「世界最終戦論」によるもので、世界を安定させるための最終決戦は日本とアメリカの戦いになるというのです。そのため日中戦争に関わっていてはやがて迎える対米決戦のための十分な備えができなくなるというものでした。石原の性格は下には優しく上には遠慮なくずけずけ物言うまさに異端児的な存在でした。自分より5歳も先輩であった東條英機に対しても、東條は戦争のやり方も知らない男だと言って、「東条上等兵」と呼んであからさまにバカにしていました。
■二人は誰もが知るまさに犬猿の仲、性格も水と油だったといわれます。
 そんなことから、石原は東條から嫌われ予備役へと追いやられ、やがて更迭され参謀本部を去り軍事の一線から身を引くこととなるのです。しかし、日本海軍がミッドウェー海戦で大敗を喫した時、総理大臣だった東條は余程ショックだったのか、「戦争の天才」からアドバイスを得ようとしてわざわざ石原を呼び寄せ、「君は今後の戦局についてどう考えているんだ?」と尋ねたのです。それに対して石原は、「戦争の指導など君にはできないくらいなことは最初から分かっていることだ。このままで行ったら日本を滅ぼしてしまう。だから君は一日も早く総理大臣をやめるべきだ。」と言い放ったのです。
■やがて敗戦、日本は東京裁判で裁かれます。
 この東京裁判は、戦勝国が一方的に日本を裁いた「
茶番裁判」とも揶揄されていることはこれまで述べてきた通りですが、ここからは、証人として呼ばれた石原莞爾が、裁判長や検事に雄弁に立ち向かった、その歴史的エピソードです。本来なら、石原も戦犯として裁かれてもおかしくはありませんでしたが、病気や反東條英機の立場が寄与し、戦犯指定を免れたのです。GHQの狙いは、東條英機をA級戦犯に持ち込みたいが為、東條と特に仲が悪かった石原に「東條が戦争の根源だ」との証言と主張をさせたかったのです。
■しかし、この目論見は脆くも崩れ去ります。
 実は、石原は本心では東京裁判で自身も裁かれることを望んでいたといいます。彼はその席でアメリカの非道を高らかに宣言したかったのです。実際、戦勝国側も石原の危険性を察知して戦犯から外したとの憶測も囁かれています。
つまり、証人としての出廷なら過激にならないだろうという思惑だったのです。しかし、そんな戦勝国側の安易な考えは吹き飛ばされてしまいます。昭和21年5月3日、石原は東京の逓信病院に入院中に検事から事情聴取を受けます。
■「
この戦犯の中で誰が一番第一級の悪人か?」
 これに対して、「それを聴くか?それなら答えてやろう。
それはトルーマン大統領である。」
 検事が、「何でそんなことを言うのか、理由を言いなさい。」すると、石原は枕元から一枚のビラを取り出し、「これを読め。こう書いてある。『もし日本国民が銃後において、軍と共に戦争を協力するならば、老人、子供、婦女子を問わず全部爆撃する。だから平和を祈願して反戦体制の気運をつくれ。』
トルーマン大統領名でこれが出された。これはなんだ。国際法では、非戦闘員は爆撃するなと規定があるにも拘わらず、非戦闘員を何十万人も殺した。国際法違反である。」
検事は、一番悪いのは東條だと言って欲しかったのに、トルーマンだと言われ困り、「イヤイヤ、そのビラに書いてあるのは単なる脅しじゃないか。」と言いました。それに対して石原は、「何言ってるんだ。おどし?おどしじゃないだろう。実際このビラの通りやっただろう。広島に何をした。長崎に何を落としたんだ。このビラに書いてある以上のことをやったじゃないか。従って、トルーマンの行為は第一級の戦争犯罪である。」
翌昭和22年、石原莞爾は病気療養中のため東北山形にいました
 石原のもとに出廷命令が届くのですが、「私は病気療養中だ、行ける訳がないだろう。お前たちがこっちに来い。」と返答します。すると、石原の要望通り東京裁判が山形県酒田市に出張して5月1日、2日と「出張裁判」が行われたのです。まさに異例です。しかし、異例はこれだけではありませんでした。堂々と法廷に臨んだ石原に裁判長が質問します。
「証人石原はこの裁判に関して聞きたいことはありますか。」 すると、石原は答えます。
「なぜ俺を戦争犯罪者として裁かないのだ。このたびの戦争は満州事変が発端となりおこった。満州事変を起こしたのはこの俺だ。なぜ俺を裁かんのだ。」この石原の発言に裁判長は狼狽するのみでした。
「あなたは証人としてここに呼ばれたのですから、そのような発言はなさらないで下さい。」
しかし、石原は続けます。「まだある。アメリカは日本の戦争責任を随分と古くまで遡ろうとしているようだが、一体いつまで遡るつもりなのか。」 これには、裁判長は冷静に答えました。
「日本の行った侵略戦争全てです。できることなら、日清戦争、日露戦争まで遡りたいところです。」
この裁判長の発言に対して、石原は、「ほう、
ならばペリーを連れてこい ! 日本は鎖国していたんだ。それを無理矢理開国させたのはペリーだろう!」 暴論といえば暴論ですが、至極まっとうな意見です。これには法廷内が静まり返りました。
■動揺を隠せない裁判長は、何とか平静を取り繕い次の質問をします。
 「石原さん、あなたは日本軍の21倍の支那軍に勝つ自信があったのですか?私には到底無謀な計画のように思えてなりませんが?」
これにも石原は平然と答えます。「勿論勝算はあるさ。君に教えてやろう。戦争は数の勝負ではないんだよ。大切なのは作戦だ。もしもこの
戦争で私が指揮をとっていたのなら裁判長、あなたの席に私が座り、ここにはあなたが立っていた筈だ。」あまりのも堂々とした発言でした。私が指揮をとれば、戦争は勝っていたと言うのです。裁判長も他の裁判官もそれ以上何も言えませんでした。何故ならは、石原が戦争の天才であることをそこにいた全員が知っていたからです。気が付けば、裁判長は、「石原さん」と呼び、後半では「石原将軍」とさえ呼んでいたのです。
 
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 石原莞爾の生涯
■石原莞爾は、1889年1月18日〜1949年8月15日)は、山形県西田川郡鶴岡(現・鶴岡市)で誕生、父親は警察官であり転勤が多かったため転住を重ねている。「帝国陸軍の異端児」と呼ばれ、アジア主義や日蓮主義の影響を受けた。『世界最終戦論』で知られ、二・二六事件では反乱軍の鎮圧に貢献したが、宇垣内閣組閣は流産に追い込んだ。後に東條英機との対立から予備役に追いやられる。東京裁判では病気や反東條の立場が寄与し、戦犯指定を免れた。東条英機と袂を分かった後は帰郷し、遊佐町吹浦(現在の「道の駅ふらっと」)辺りに居住し、遊佐町高瀬村の西山農場を営む。60歳没。墓所は山形県飽海郡遊佐町菅里に所在。第6代鶴岡市市長で衆議院議員加藤精三(元衆議院議員加藤紘一の父で、衆議院議員加藤鮎子の祖父)は莞爾とは又従兄弟の関係である。
■石原は極東国際軍事裁判においては戦犯(戦争犯罪人)の指名から外れた。東条英機との対立が有利に働いたとの見方もあるが、実際には開廷前の検事団によるA級被告選定の席で、戦犯指定された石原広一郎を石原莞爾と勘違いしたことが原因だった。事態に気づいた検事が慌てて入院中の石原莞爾に面接するが、「重態」のため調書が作れず、最終的に被告リストから外された。東京裁判には証人として山形県酒田の出張法廷に出廷し(これは病床の石原に尋問するために極東裁判所が特設したものである)、重ねて、満洲事変は「支那軍の暴挙」に対する本庄繁関東軍司令官の命令による自衛行動であり、侵略ではないという持論を主張した]。酒田出張法廷に出廷するため、リヤカーに乗って酒田へ出かけたが、この時のリヤカーを引いていた青年の一人は、゙寧柱が連れてきた大山倍達だと伝えられている。
■この出張法廷では、判事に歴史をどこまでさかのぼって戦争責任を問うかを尋ね、「およそ日清・日露戦争までさかのぼる」との回答に対し、「それなら、ペルリ(ペリー)をあの世から連れてきて、この法廷で裁けばよい。もともと日本は鎖国していて、朝鮮も満洲も不要であった。日本に略奪的な帝国主義を教えたのはアメリカ等の国だ」との持論を披露した。また、東條との確執についての質問には、「私には些細ながら思想がある。東條という人間には思想はまったくない。だから対立のしようがない」といい、ここでも東條の無能さをこきおろしたという。実生活においては自ら政治や軍事の一線に関わることはなく、庄内の「西山農場」にて同志と共同生活を送った。戦前の主張であった日米間で行われるとした「最終戦争論」を修正し、日本は日本国憲法第9条を武器として身に寸鉄を帯びず、米ソ間の争いを阻止し、最終戦争なしに世界が一つとなるべきとした。
■石原は米ソや日本共産党を批判しつつ大アジア主義は維持しており、「我等は国共いづれが中国を支配するかを問わず、常にこれらと提携して東亜的指導原理の確立に努力すべきである」と主張した。終戦間もない頃に、満洲事変では朝鮮軍から関東軍間の連絡将校を務めた元陸軍少将で大亜細亜協会幹部の金子定一が石原を訪問した際に、石原は自身を訪問してきたマッカーサーの側近に対して話したこととして「予は東條個人に恩怨なし、但し彼が戦争中言論抑圧を極度にしたるを悪む。これが日本を亡ぼした。後に来る者はこれに鑑むべきだ。又、日本の軍備撤廃は惜しくはない、次の時代は思いがけない軍備原子力武器が支配する」と語ったという。病で動けなくなっていた石原は、1946年東京飯田橋の東京逓信病院に入院していた。この際、東京裁判の検事から尋問を受けているが、終始毅然とした態度を崩さず検事の高圧的な態度に怒りをもって抗議し、相手をにらみつけたという。同席した米記者マーク・ゲインは「きびしく、めったに瞬きもせず、私たちを射抜くような眼」と評している。 
 庄内日報で紹介された「石原莞爾」と「大川周明
 
 
事後法と 皆が批判す この裁き 勝てば官軍 負けは賊軍
この裁き 余儀無くされて 和を結ぶ とは言え悔し 尾を引く無念
跳ね返す 気力失せたか 今の民 莞爾の教え 水泡に帰す
 
 
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